CARNIVAL 瀬戸口廉也

CARNIVAL

CARNIVAL


思い切りネタバレしてます。
書きたいことがいろいろあったので、ほんとに長くなったのですが、それだけ思うところが多い作品なのです。



CARNIVALは、泉シナリオがシナリオ1の分岐として存在しそして、シナリオ1終了後武の視点としてのシナリオ2、そして理沙の視点としてのシナリオ3によって構成されています。


泉シナリオでは、学自身の幸せというものが描かれています。
彼は誰かに受けたいじめであっても感受してしまい、泉シナリオで理沙が裏切ったと思い込んだままだったとしても、理沙のことは悪いとは思わないと言い、とにかく人のことは責めず、その責任は全て自分のものだと思っています。


そんな学と泉との会話は、

「もっと刹那的でもいいんだと思うの、きっと」
「駄目だよ、物事には、いろんなしがらみとか呪いとかの義務があって、忘れちゃいけないんだ。いくら刹那的な何かをしても、何も壊れない」


「そうかな、でも、いろんなものが鎖みたいに絡みついてて普通なんだよ。みんなじぶんの物語に縛り付けられている。勝手な一抜けなんかしたら後の人がこまる」

というものですが、学の場合にはしがらみを、忘れてはいけないものや、それがあって普通のものとして捉えていてそういったものから自由になろうと思わないというか、そもそもそういったことをしないことが当たり前のこととして受け入れています。
そのため、非常に重いものを背負っている学にとって、その荷物を降ろすということが最初から選択肢の外であり、その上で何かをするということしか考えていないんですよね。でもそれは、馬の目の前にぶらさげてある人参のように、ほとんど絶対に実現できません。


だから泉シナリオで、刹那的とか、一番大切なものが自由であるという過激と言えるくらいの泉と行くことによって、その荷物を降ろして初めて学自身が楽しいと思い、自分自身の幸せを感じることができるんですよね。泉と一緒に自由に、どんなしがらみもなく暮らしたからこそ、

「あんまり、楽しいこととかなかったんだ。世の中って、ずっと苦行みたいなもんだと思ってた。泉と行動するようになってから、楽しいってことの意味が分かったような気がする」
「そうなんだ。それは、凄いよかった。嬉しい」
「うん、泉が、世の中の楽しみ方を教えてくれたんだと思う。感謝してる」

と言うことができた。
これは確かに学にとっていいことだと思います。


でも、やっぱりこれが学にとって本当にいいことだったかというとそうではなくて、武のことや、学の母親のことを忘れ、そして理沙のことも置き去りにした上で得た幸せです。
そして、ほとんど終わりのところであっても泉に対しては、あくまで好きは好きだと言います。
泉といくことを選ぶ時もまだ理沙のことが好きだと言うのですが、学にとって理沙はやはり一番大切な存在です。それは、泉と行ったとしても残っていて、消えるものではない。


このルートでは、まちばりあかね☆さんのFate/stay nightレビューで桜ルートに対して書かれているような、自分自身の良さをスポイルしてしまった上でのものです。
上で書いたとおり、学はそうでもしなければ幸せを感じることなどできないのですけど、それは「いろんなしがらみとか呪いとかの義務」を全て断ち切った上でのものでしかないし、その断ち切られてしまったものの中には学にとって大切なもののほとんどがある。
だからあくまで、このルートはサブでしかありません。 


そういったことを踏まえた上で、学にとって本当の幸せとは何か?というと、それは、シナリオ3までクリアした後に、シナリオ1をやり直すと出てくる、子どもの頃武が母親を殺さずに、皆で幸せに暮らすことというものです。
母親と理沙と三人で、一人ずつで苦しんできた三人が、そこからは一緒になって、皆で幸せになること。


それを実現するために学はずっと苦しんできたのですが、学のやろうとしていることは、大げさに言うと神になることです。
小さい頃学は、母親に虐待されることに対し、武と

「本当にいいと思ってたら、お前だってこんな辛い思いしなくて済むはずだろ?」
「それは、まだ僕が子供だからだよ。人間にはいろんな顔があるんだ。よく解らないところが辛いだけで、もっといろんなことをたくさん知って、今理解できないことがわかるようになればきっと……」

という会話を交わし、中学の頃のいじめに対しても自分はそうされるべき人間なのでそうなってしまう仕組みが嫌だったというのですが、これは誰かに責任があるのではなくて、自分がそれを何とかしたい、もしくは、今の自分にはできないけれど、どうにかできるのではないかという考え方です。
つまりこの考え方からいくと、どうにもできないように見えることというのは今の自分のせいであって、本当の意味でどうしようもないことというのは存在せず、自分さえしっかりしていれば、それは、本当はなんとかできるはずのものです。
だからこそ、学は誰かに傷つけられたとしてもそれを自分が受けるべきものとして受け入れてしまいます。


そんな学のあり方に対して、理沙はどうかというと、彼女の方は自分自身が正しくないものだと思っています。自分の周りの人を悪く言ったり、自分に対し性的虐待のようなことをしている父親に対して嫌だと思うのですが、父親は自分に対して救いを求めているのだからそんなことを感じる自分が間違っているんだと思っています。自分以外が正しいのだから、それに対して違うことを思ってしまう自分は間違っているのだというロジック。


理沙は誰か、絶対の人に話してその誰かが決めてくれたらと言います。
それは、学と同じく神を志向することです。
このゲームではキリスト教の神が完全なものとして、人はそれに許されることによってしか救われることしかできないということが語られるのですが、現実にはそれは存在しません。
学が望んでいるような、どんなことでも上手くできることということはないし、理沙が望んでいるような絶対の人が正しいことを判断してくれるということはない。「世界は人を愛してくれない」と学は言います。
それでも二人はこの世界が好きだと言い、上手くいかない世の中に対してどうしたらいいかという疑問に対し、こたえがないのがこたえで、それでもやっていきたいと思ってそして二人で歩き出します。
お互いのことを思いながらも、長い間上手くかみ合うことのなかった二人が一緒に。
学にとって理沙は「なんで、僕が気がつくと、いつも、理沙がそこにいるの?」という存在であり、理沙にとって学は「それに、私を助けてくれるのは、やっぱりあの人しかいない」という存在であって、二人にとって相手は、自分と同じかそれ以上に大切です。。


このゲームの一番最後に、学は「理沙が望むなら、僕は人をやめて、神にでもなんにでもなろう」と言います。今まで言ってきたとおり神というのはありえない存在であって、それになろうとすれば幸福であるということはありえません。
どうやっても上手くいかない世界の中で、それでも彼らは歩いていきます。
この終わり方は、何の衒いもないハッピーエンドだということはできないのですが、それでも最善の、ハッピーエンドだと思います。


この作品の凄いところは、この作品では結局救われることがなく、完璧な幸せなどないという非常に辛い世界を描きつつも、それでも読後感は決して悪いものではなく、非常にいいことだと思います。
絶望的なものを描く際に、結局それは絶望に過ぎないと描くことは簡単です。ただそのまま描けばいいんですから。
それに対して、絶望的なものを描きつつも、それでもそれに対して屈することがなく、最善を志向することは非常に難しいです。絶望それ自体はどうにもできないのですから。
それでも、ハッピーエンドと思えてしまうようなエンドに行き着いたこと、そういったものを描いたこの作品は僕にとってこの作品は本当に好きだと自信を持って言える作品です。