フロレアール

 ……貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズム。
 ……僕たちの周りにある価値観の全て。
 ……それは、全部《言語ゲーム》なんだ。
 ……ヴィトゲンシュタインが言ってたみたいに。
 ……でも、そんなこと言うまでもないことなんだ。
 ……そんなことが重要なんじゃない。
 ……僕たちはみんなフィクションの中を生きている。
 ……初めから判りきっているさ、そんなことは。


このゲームは六つの章からなっています。各章について簡単に説明すると、一章はメルンと幸せに暮らしながらも最後には別れることになってしまう世界、二章は別れた後に再び再開し、二人で幸せに暮らす世界、三章はフォルキシアによりメルンを失ってしまう世界、四章は唐突に現れる「外部」によって死んでしまう世界、五章は神に戦いを挑み敗れる世界、そして第六章はそれを受け入れる世界となっています。
そして、それをグッドエンドとバッドエンドという視点で分けると、二章と六章がグッド、そして残りがバッドとなっています。
これらの違いは何か?ということを考えたときに、ジャンが突きつけられていた現実とのスタンスで違いで分けられるように思います。


まずは一章、二章について
エンド1になる選択肢は
「メルンの手を振り払う」
「メルン、そんな楽しそうなふりはやめてくれないか」
というメルンを疑うものです。一章では、ジャンはメルンのおかげで「嵐」から救われているにもかかわらず、それが自分だけのものではないかと思い込み、そのせいで上のようなセリフを言います。
それに対し、二章ではメルンが自分といたかったからだという、本当は知っていたことを改めて認識しなおします。エンド1になってしまった理由は、本当は分かっていたはずのメルンの気持ちを疑ったから、つまりそれは彼の弱さによる逃避によるものです。


三章は主人公がフォルキシアという病気になっている世界です。
フォルキシアとは、感染している人が口を利いた人に対し、極めて高い確率で感染し、その宿主が心を許せば許すほど感染者に大きな不幸が起こります。
このフォルキシアの位置付けについて、どうもよく分からなくて悩んでいたんですが、おそらくこのエンドの最後の文、「ヒトは、心を開いてはいけない。」というのは最終的なメッセージにはそれほど影響するものではないのではないかと思います。あくまで、このフォルキシアという病は主人公に降りかかってくる運命に過ぎず、それ以上のものではないのではないかなと。
この章で大切なのはむしろこのフォルキシアという病そのものではなく、そのフォルキシアに対してどうしたかということなのだと思います。
フォルキシアによって、主従関係になってしまったメルンとジャン。しかし、その運命があったとしても、それでも彼らは幸せでした。

僕と一緒にいることをメルンは嫌がっていたか?
 そんなことはないはずだ。
メルンが毎日見せる笑顔は、偽りないものだった。
メルンは僕との生活を喜んで受け入れていたのだ

我々はあらかじめ運命づけられている。
それは疑いようのない真実だ。
問題は、その運命の中でどれだけ生を謳歌することではないのか?

支配され、運命というものがあったとしても、そのなかでどう生きるか、何をするかということ。
大切だったはずのメルンに起こる不幸から目をそらし続けたジャンはメルンを失い、この章は終わりを告げます。


四章は「海よりも深い事情」の下でメルンを虐待する世界。
この章でそういうことをしていた理由は五章で明かされるのでまとめて話すと、ジャンのいた世界は「神(プレーヤー)」によって強制的にハッピーエンドにされる世界でした。
ジャンはその理由をはっきりと知ってはいないものの、それに逆らうためにハッピーエンドにならないためにメルンを虐待しますが、その目論見は失敗し、唐突に表れた「外部」によって命を奪われます。
そして第五章においてそのことにはっきりと気づき、自分の運命があらかじめ決められているということに耐えられず、その「神が自分とメルンが幸せになるべく設定した世界」を破壊すべくメルンを殺そうとします。
しかし、そこで今から殺されるにもかかわらず、彼を赦す笑顔であるメルンを見て自分の試みが失敗したことを知り、彼は壊れます。


そして第六章で目を覚ましたジャンは、自分がフィクションの中で生きていることを認め、その中で何が大事であるか一つ一つ検討していくことが大事だと言います。
これが、今までのまとめだと思います。
一章、二章の比較において見られる「自分が本当にメルンを大切だと思っていること」、
三章で見られる「支配されていたとしても幸せだった世界」、
四章、五章で見られる「支配されていることからはどんなことをしてでも、例えどんな犠牲を払ってでも必ず逃れなければならないという強迫観念」
それら全てを踏まえた上で、ジャンの最後のセリフに繋がるわけです。
最後のセリフでは、貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズム、そして周りにある価値観の全てを言語ゲームであると言います。つまりこれらもこのゲームの使い方でいうとフィクションであり、そして人を支配しているものです。
こうやって書いていけば分かるとおり、この作品では支配されることということを必ずしも絶対視していないんですよね。ラストで

……大事なのは、世の中の色んなフィクションを1つ1つ検討していくこと。
……そして、自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと。
……そう、そのことが、多分大事なんだ……。

と言っている通り、支配されていることを解消することというのは、あくまで選択肢の一つに過ぎません。もちろん支配されていることが良いことだとまで言っているわけではなくて、メルンと秤にかけるということにならなければ、フィクションを壊せたかもしれません。ですが、ゲーム中では一番大切なメルンを犠牲にしてもフィクションは壊されねばならないと、支配について絶対視しています。
ここでは、何が一番大事か?という判断はありません。最初から一択であり脊髄反射的な決定です。
そうではなくて、すべてを相対的なものとしてしまった上で行動していくことがいいと言っているといってしまってもいいのではないかと。だが、こんなのは元長柾木にとっては、人間(HUMAN)の問題でしかないだろう。という考え方からすれば、所詮人間の問題なのだからどれも相対的なものでしかないということなのかもしれないのですが、さすがこうまでして描かれてしまうと、かなり圧倒されてる気が。