Forestとの比較論の是非

9791さんがForestとの比較をされるそうなので、その前に言っとくべきことを

とりあえず、9791さんは
>そこにはプレイヤーの意志は勿論、主人公の意志すら存在しなかった。
>彼等は己の責務と望みと感情によって、結果的に“団結している”ように見えるだけなのだ。
がForestと比較すればhollowは団結と呼べるものではないとか、現実回帰というにはその現実を描いていないとかそういう批判をしていたと思っています


ただ、Forestとの比較という視点も持ち出すのであれば、Forestとの比較の是非、つまり、それをすることの必然性の有無、それをすることが適切かどうかまでやらなければならないような気もします
ブロードブリッジは現実回帰という視点で切っていいかどうかとか、個人の目的と団結に対する両作品のスタンスの差異とか


かたや現実のために団結する作品、かたやそれぞれの目的のために戦う作品(僕の主張は団結というのがない訳でもないというものですが、Forestと比較するというのであれば弱いとは思います。ただ、ないと言い切ってしまうにはいろいろありすぎるかなと思ったので、今までいろいろ言ってきたのですが)を団結という視点で比較すると、団結をメインに描こうとしている作品の方が上に来るのは当たり前というか、それを作品の良し悪しとして語っていいのかという問題があります


加えて、hollowは現実回帰というより、楽園否定と言った方が正しいのではないかと僕は思っているので


>この夜集う者全ては。
>自ら望んだ未来のために、この幻想を打ち捨てて───

とか言っていたり、走り続けろとか言ってみたり
帰るべき現実がどうだからという話ではなく、今いる自分の場所が自分にとって立ち止まってしまうことだから、それを否定することが結果的に今回は現実回帰に繋がったということで
つまり、hollowは現実回帰そのものを向いているのではなくて、その足を止めてしまう楽園を否定しているんだと言った方が近いんじゃないかということです


とか書くと、ますます収拾が付かなくなることが予想されるので、見ている人のために対立点を整理して、議論という形は終わりにしたほうがいいのかもしれません