紫色のクオリア うえお久光

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

 
いつものごとく、ネタバレとか気にしないので、良い人だけ読んでください。

─物語は、いつから始まるのだろうか。
物語となるべき状況が、生まれたときからか。
それとも、語ろうと決めたときからか。


まず始めに。この作品の一番気に入っているモチーフは「光のように」というものです。
それを言うためにはちょっと回り道。選択肢って言葉がありますよね。自分は今とは違った「可能性」を選ぶことができるというもの。平行世界ものというとこれを思い浮かべると思うんですが、この作品ではそれとは思想が違います。どういうことかって言うと。
選択肢というものを使う際には普通はその選ばれた結果を肯定するように機能します。ほかにもいくつかの世界があった中で、この「選択肢」を選んだのだというように。一回性というやつです。
でもこの作品で学は
「それでも、あたしに、選択肢はない。」
と言います。平行世界、無限の可能性を味方に付けているにも関わらず。何故かというと、彼女に目的に向かって突き進むしかないからです。平行世界というのは、そのためのツールにしか過ぎない。
最強の汎用性を持つ波濤学。
彼女にとっては、平行世界もアリスのことも、過去の他人になれるということも、魔法も、万物理論すらも全て彼女が換装しうる装備に過ぎないんですよね。ゆかりが生きている世界を作る、その「目標」への最短距離を見つけるための。もっと言ってしまうなら、自分自身すらも目標のためのツールですらある。「あとはよろしくね、『あたし』?」なんてセリフがありますけれど。
そういった意味で、この作品がSF、つまり、科学的なもの、論理、プロセスにロマンを感じると呼んでいいのか若干疑念を持つところではありますが。というのは閑話休題。僕はSFとは何かとかさっぱりなので。


んで、冒頭の光のようにというモチーフについて。光に意志はありません。光の最小経路を導き出してそこを辿るという性質は「そういうもの」なんですよね。このモチーフと、目的への最短経路を取るために全ての経路を探り、そして本筋以外を消していく学というイメージは非常に近い。
この物語の、どんどん世界観を入れ替えて、それに適応しつつも、適応しないという最短距離以外への選択肢を持たない、そんな彼女の物語に光はぴったりだと思うのです。


そういった光についてのモチーフが語られる一方で、「問題」が何かということがこの作品では常に問われます。
量子コンピュータでは問題が解かれるのは一瞬だ、でも、なにが解かれるべき問題なのか分からなければ解きようがない。最短距離を辿る光であっても、そもそも何処へ行くのかがはっきりしなければ意味がないですよね。ある意味では、問題を見つけるということへのトライアンドエラーだったとも言えます。

長い長い探索の末にたどり着いた問題に対する答えが、クオリア、そして出会いです。他人の「感じ方」、クオリアを理解することはできない。世界から出る、そこまでしても超えられなかった自分自身であるということの限界。
であるからこそ、それは、自分自身であることを保証し、誰かとの出会いの価値を見いだすことが出来る。そこで見つけた自分だけの宝物が、紫色の瞳を持つ少女との出会い、「紫色のクオリア」。

「いや違う。やり直すんじゃない。そもそもなにも、はじまっていない。」
「ずいぶん遠回りをしたけれど、気づいてみれば、あっという間な─」

「出会い」、物語を生むのはまさしくそれなわけで。長い長い、だけれど短い*1、そんな出会いを描いたラストの光景も好きだなあと。

こんな「感じ」をくれた、この作品との出会いに感謝しつつ。

*1:なにしろ夢で、最短距離