CLANNAD

麻枝さんって、ユーザーの不満とか批判とか疑問だとかに対して、ものっっっっっっ凄く真面目に反応しちゃう人なんだと思うには、すごく賛成です。
CLANNADって、だからもうくちゃくちゃに不器用な作品になってて。


ONEやKanonで描いてきたのは、同時間の空間における可能性です。ONEが今まで無数の分岐点があったにもかかわらず今ここにいるという、今複数の自分がありえた複数性を、Kanonでは、SEVEN PIECEとか、裏山に妙な狐が沢山棲んでいるという多様性を描いています。
そこから、作品に描かれてはいない、たくさんの可能性や物語、人が想起されます。


AIRはそれに対して、千回目の夏と時間軸で描いた作品です。その夏の間には、人形遣いの一族や、神奈の呪いを受け継いだ子たちの幾つもの物語があります。佳乃や美凪エンドというのは、さまざまな人形遣いの一族の多様なあり方のアナロジー(使命を捨てて自分の幸せを見つけるとか、旅の途中の関係を経て、また旅を続けるとか)(インタビューで特例なんて話もあります)です。


そしてCLANNADは、その両方の想起される世界を一つの作品で実際に描いてしまったものであって。
同時間の多様な人達を描ける範囲で実際に描いたのが「町」で、時間の流れとそれによる繋がりが「家族」です。
でも、この想起される世界を実際に描いてしまうなんてことはかなり無茶だし、やる必要はなかったはずです。開発期間とか費用とか、ユーザに強いるプレイ時間とか負担とか。二度と同じものは作れないとも言ってましたし、はっきり言って無理が過ぎます。
その理由として考えられるのって、ユーザに分かりやすくだと思います。描かれた世界から想起される多様な世界観というのが伝わりにくかったから、実際にそれを描いたのではないかと。個人的に思っていることを言ってしまえば、どれだけ巨大なものを描いても現実規模のものを描くことができないのだから、多様な形がありえるということだけで十分だと思います。
そんなことをしている辺りが、ユーザにものすごく真面目に反応しているのではないかというところです。



ここまでCLANNADがどうしてああなったのかというのを僕の思うところを書いたのですが、麻枝さんが描くこのビジョンが好きということを常々思っています。
CLANNADの、

「もし…町に人と同じように、意志や心があるとして…
 そして、そこに住む人たちを幸せにしようって…そんな思いで、いるとしたら…
 こんな奇跡も、そんな町のしわざかもしれないです。」
いや…奇跡はこれからたくさん起こるのだろう。
そんな気がしていた。
「でも、それは奇跡じゃないですよね。
 町を大好きな人が、町に住み…人を好きな町が、人を愛する…
 そんな、誰にでもある感情から生まれるものです。
 この町だけじゃないです。どんな町だって、そうです。
 わたしたちは町を愛して、町に育まれてるんです。そう思います。」

「なぁ…町は、大きな家族か」
「はい。町も人も、みんな家族です」

というところとか、やったとき凄いというか凄まじいと思っていて、これからするとあれだけの規模の作品を描いてきた後に*1この町だけじゃなく、どんな町だってそうだと言われてるってことは、この町はまだここに至っても他の町や可能性を想起させる一つに過ぎないと言っているのだと思います。
そしてこの作品は、「楽しいことは、これから始まりますよ」という風、まさに「これから」で締めくくられてるわけです。
や、ほんとに凄いというかなんというか。


リトルバスターズ!の感想に少し追記したのですが、「信じさせてくれる」もそういうものの一つとして受け取ってます。最後に映し出される彼らが行った海も。
麻枝さんの引退作のラストとしてこういうのを見ることができたのは、感慨深いものがあります。

*1:何十時間でしたっけ?あれ