人称

人称の問題というのは、より開かれた相手へ向けて差し出すための技巧であるとするなら、フィクションというものの説得力という話ではないかなと思いました。


小説道場でフィクションについて、

「現実と遊離したものほど、堅実な技術に支えられてなければならない」のだ。フィクションがフィクションであるほど、それを支える幻想に首尾一貫性や、文章力、妄想の力というものがなかったら、それは破綻する可能性が大きくなります。

と言われていて、これはこのへんの話とも関連すると思うのですが、ここではSF(⊂フィクション)について、

SFのリアリティとは、「このような世界が存在していても(世界が実はこのような形をしていても)不思議ではないというところにこそある」

と言われています。「このような世界」の「リアリティ」(ちょっと上で、「あるいはこういって悪ければ「説得力」」と言っているので、説得力としてとります)を支えるのは作中論理における「実現可能性」や「実在可能性」なのですが、これは小説道場から引用したような「首尾一貫性」が特に求められますよね。
首尾一貫性がある方が説得力があって、「より多くの読者に伝わる可能性」が増えます。


人称の問題だと、例えば一人称は「一人称である限り決して、その人のいないところ、能力以上のこと知らぬはずのことは見きき経験できぬ」というルールがありますけど、誰かから見える世界で通してきたのに急に別の人でないと見えないものが見えたりしたら、首尾一貫性が崩れます。首尾一貫性が崩れるってことは、「破綻する可能性が大きくな」ることなので、説得力が減るということなのではないかと。


あとは、フィクションが破綻する可能性は首尾一貫性(人称)だけではなくて、文章力や妄想の力などによっても支えられているので、ストーリーが面白くありさえすれば、人称だの視点だの選択主体だののブレ(というか移動)はプレイヤーに問題視されないんじゃないかなあ?というのは、こういう話ではないのかなとか思いました。