智代アフター 感想

智代アフター ~It's a Wonderful Life~  初回特典版

智代アフター ~It's a Wonderful Life~ 初回特典版

以下ネタばれします
思い切りストーリーをばらしてますので、ご注意を

人はいつまでも無垢のままいられないんだよ
いつか人は大いなる悲しみを知る
それは人が生まれてきたときに運命づけられていることなんだ
でもそれを乗り越えていける力が人にはある
そこから悲しみとの融和が始まるんだ
人が人らしく人であるために


鷹文が、智代にキスされてショックを受けて金髪になったシーンのセリフなので、入れ方はどう考えてもギャグなんですが、このセリフって智代アフターという物語を非常に良く表していると思います。


まず、鷹文のシナリオですが、「もう既にいなくなってしまった人との取り返しのつかないできごと」という意味においてCLANNAD本編のことみシナリオやトップをねらえ2!第三話(トップ2 第三話 感想)などとかなり似ています。しかし、このシナリオが後の二つと決定的に違うのは、鷹文は結局その人には許してもらうことは出来なかったという点です。
確かにことみシナリオやトップ2でヒロインが立ち直れるのは、いなくなってしまった人との出来事が本当は何も悪いことはなかったということが分かった後ではなく、自分の意思によるものです
あくまで自分の力でそれを乗り越えた後に、その事実が明かされます。
いなくなってしまった人との上手くいかなかったことをただある種のすれ違いだったとして終わらすのではなく、そこに成長というものを絡めるのは上手いとは思うんですが、もし本当に上手くいかなかった場合はどうなのか?ということがあります。


鷹文は走り終わった後、先生との夢を見ます。そこで彼は今までなら何も言うことが出来なかったにも関わらず、

「今も僕は…」
「可南子が好きです…」
「大好きです」

と言いました。そして、河南子に許されるわけですが、河南子に許されたとしても本当に先生に許されることにはならないんですよね。おそらく、あの後でも鷹文は悪夢に悩まされることもあると思います。でも、河南子は

「あんたが夢で苦しんだら…」
「あたしがそばで、こうして、許して挙げるから」
「許し続けるから」

と、鷹文の傍にいて彼を許し続けると言います。
例え悲しみがあったとしても、それでも彼はこれまでのようにただうなされ続けるだけではなく、河南子が傍にいて、彼女のことが好きだと言えた鷹文ならばそれを乗り越えていけると思います。



次はとものエピソードについて
ともの母親は自分が不治の病であることを知り、ともとは二度と会わないことを決意し、そして自分は変化のない旅の終点であるあの村で余生を過ごそうとします。


智代もそんな彼女と同じくともを悲しませたくないと言い、ともとともの母親が一緒に暮らすことを拒みます。そして、智代の場合は今の幸せな生活を終わらせたくないという思いによってでもあります。


でも彼女たちのそんな選択は悲しみが目の前にあるからといって、本当に自分がしたいこと、すべきことを避けることです。そして、それはともにとっても同じ。彼女たちがともを悲しませたくないと言って母親と会わないようにさせることは、却ってともを不幸にしています。
ともは朋也たちといて幸せそうに見えても、本当はずっと母親と一緒に居たかったのだから。


ともの母親がいた変わっていくことという痛みを恐れる村は、皆のために電化製品を直して回りとものために学校を作ろうとした朋也、村に変化という要素を持ち込んだ可南子によって変わって行きます。

「でも、そんな村に初めて、変化していく存在が現れたわけ」
「それが、かなちゃん」
「育児に終われる母親は、子供の日々成長する変化に生き甲斐を感じていく」
「老い先短いお年よりも、孫の成長を喜ぶものでしょ?」
「こう言っちゃかなちゃんに悪いけど、それと同じね」
「かなちゃんは、子供のように笑って、喜んで、お菓子作りを覚えていった」
「それが彼らにとって、生き甲斐となったんだと思うの」

そうか
今ようやく気づいた。
俺は既にこの村に、未来を指し示す希望を持ち込んでしまっていたんだ。


そして、それはともの母親に例え短い間しか時間が残されていなかったとしても、ともと一緒に暮らそうと思わせ、智代にともとの別れとなる学校の手伝いをさせました。


村人の協力の中学校がついに完成した中で、ともも朋也に母親について問われます。

「とも、答えろ。それでもお母さんと最後まで一緒にいたいか?」
押さえつけて問う。
酷だ。
でも、その答えが得られないと、母親の元にはやれない。
  
  
そして…
こくん。
頷いた。

悲しみが待っていたとしても母親や智代が心配していたように拒絶することはなく、それでも母親と一緒にいることを選びます。


そして、スタートラインに立ったのは智代も。
智代はそこで、ともとの別れを受け入れ、笑ってともに別れを告げました。
そんな智代の応援を受けて、走り出すともを見て朋也は思います。

ともは今日から強くなるんだろう。
そう思う。
そして、同じスタートラインにたった智代も。


ともは、変わっていくことを受け入れた村の人々、自分と一緒にいてくれることを決意した母親と一緒に、母親との限られた生活を大切にし、そしてそれに負けずに乗り越えていける、そう思います。


そして、アフターアフター
アフター終了時から三年後。
朋也はアフターでの怪我により、記憶を一週間程度しか保つことが出来なくなっていました。
その間智代は、何度も何度も朋也を失い続けます。


朋也の症状は手術をすれば直るものでした。しかしそれは非常に危険であり、手術をしなくとも今すぐに危険があるというわけではないので智代は現状維持を望みます。恐れによって本質的な問題を回避し、それを先送りしてしまうことは智代というキャラクターの弱さでもありながらも実際にそれを三年間も、最後の一年は一人でありながらも続けてしまうということは彼女の強さでもあります。


そして、ずっと、ひたすらに繰り返してきた後のプレイヤーが見るアフターアフターで、一週間という限られた期間で朋也は、ようやく三年間の間決して辿り着くことのなかった「智代、好きだ」というところまで来ました。
それを受けて智代は朋也の手術を受け入れる決心をします。

そう
これは始まりだ
私はかつて”彼女”がいた場所に立っていた


私一人逃げていたんだ
愛は、今も続いているのに
彼が今、それを証明してくれた
だから、私は決心した
強くなる、決心を


朋也が智代に結婚しようと言い、再び記憶を失ったあとに記憶を失って覚えていないにもかかわらず、彼は自分と智代が愛し合っていると信じられると言います。三日の日記(id:simula:20051203)で渚と対照的なところについて少し触れましたが、渚との関係が一緒に積み上げていくことによる絆とするなら、智代との関係は

同じ目。似た者同士の目。
こんな学校で出会えた、仲間だ。
(CLANNADより)

というセリフがあるように、お互いの本質に辿り着くまでと言えると思います。


だから三年かかってようやくまた朋也は智代のことを好きだと思い、智代は彼からの愛を確信し、そして朋也が記憶を失った後、そうだったと信じられることまで智代と朋也が辿り着けたことを僕は必然であると信じたいです。


最後にプレイヤーにとっての智代アフターについて
今作、智代アフターは本来なら感情移入の対象であるはずの朋也が死んでしまったり、朋也が記憶を失い続ける三年間は直接は描かれることはなかったり(智代の必死さ、悲痛さは痛いくらい伝わってきますが)、また、朋也が死んでしまった後を歩む智代は直接描写されることはなかったりと、プレイヤーにとっては非常に感情移入しづらい作品です。
でもこの作品の一番重要なところは、智代にとっての「人生の宝物」である朋也との思い出は悲しみを伴うものであったとしても受け入れて、それを胸に抱いて歩き続けて、誰かを助けたいと思うことだと思います。

私はもう二度と絶望しない
逆境を乗り越え
永遠の愛を信じて
ひたすら信じて
ふたりで生きた日々があるから
それは私だけの宝物だ
かけがえのない宝物だ

というように、その空白は彼女のものなのだと思います。
そして、彼女にとっての「人生の宝物」、「永遠の愛」という確信も。
それはプレイヤーのものではなく、プレイヤーに出来ることはただ彼女の宝物について感じて、彼女からのメッセージを受け取るくらいなものです。朋也が死んだ後、智代がどんな心境で生きているかは、想像して、信じるしかないと思います。僕は、この作品を通して描かれてきた智代というキャラクターが上のセリフのように言ったことを信じたいと思うのです。



総じて思ったことを書くなら、この作品は感動とか泣くとかそういったものは近いけれど、少し違う気がします。本来なら一番盛り上がるべき朋也の死を乗り越えて行く智代は既に過去の話として語られるので、それこそ感情移入しにくいです。むしろこうやってこれを書くために読み返していて、

世界がこんなにも美しいことに、今まで気づきもしなかった

というセリフを見た時、この智代アフターという物語のことを言っているようで、非常に印象深いと思ったくらいです。
視点キャラクターの心情を追って感情移入することがしづらいため、この作品に触れて何を感じるかは、非常に個人的なものだと思います。
だからこそこの物語に触れて感じたことが、それぞれの人にとっての、この物語の価値となると思うのです。
僕にとってこの物語は、非常に素晴らしいものでした。