ヴィークルエンド うえお久光 

ヴィークルエンド (電撃文庫)

ヴィークルエンド (電撃文庫)

ネタ割りまくってるので、注意してください。予断を持たずに読んだ方が良いと思うので。

ところで内田樹は「邪悪なもの」について語っている。《……私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。》(内田樹「邪悪なものが存在する」、『期間限定の思想』)
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20090311#p1


うえお久光という作家の悪魔のミカタ以外の作品って、ミカタからの変奏的な意味合いが結構あるよなと思っていて。今のところ19冊?出ていて未だ終わる気配のない悪魔のミカタにはこの作家のすべての要素が詰まっています。だけれど、長い分いろんな要素があるし、かつそれらの一つ一つの要素には未だまとめると言うところまで行っていません。だから、紫色のクオリアとか、ジャストボイルドオクロックとか、このヴィークルエンドとか一冊完結型の場合には要素のいくつかだけを取り出してきて、それについて深めるということになっていると思うのです。


という前置きの元にヴィークルエンド悪魔のミカタの主人公、堂島コウには妹が宇宙人にさらわれたということが語られます。そして、現在の彼は妹が宇宙人にさらわれたと言うこと自体は覚えておらず、そのことを幼き日の彼が主張し、それがまわりに受け入れられなかったということだけを強く覚えている。そのことは彼の今の人格を形成するくらい決定的な出来事ではあるけれど、繰り返しますが、妹が宇宙人にさらわれたこと自体は覚えていない。決定的な出来事にもかかわらず、そこが、まさにその極点が空白である。
ヴィークルエンドの主人公、羽鳥も同じです。彼によって「もっとも印象深い記憶」と語られる船上から真っ暗な海へ飛び込んだ、(もっと言うと着水するときには服を全部脱いで全裸)ことも、「もっとも印象深い記憶」と語られるにも拘らず、彼が何故そうしたかということだけは、現在の彼には分かりません。


うえお久光のモチーフの一つである、彼を今あるようにした「邪悪なもの」についてのこの作品での結論は、「意味がない」ということです。羽鳥が飛び込んだ理由が他人の心の*1虚実を見抜くことが出来るミクニによって明かされますが、それは一定以上の感情を熱としか捉えることが出来ない彼が、「熱かったから」服を脱いで海に飛び込んだというものでした。ここには自分がそうだから以上の意味は一切断たれています。自分を形成した決定的な出来事であるけれど、ここを追求してもこれ以上の何も出てこない。ただそうだからというだけ。
人は自分にとって大切なことは、世界にとって大切なことだと思いがちです。自分にとって影響力の最も高いものが、世界にとって無意味だと認められるはずがない。にもかかわらず、現実はそうであった。そんな邪悪に彼がどう向き合ったかというと。

ヴィークル・エンド──続きはない。
ヴィークル&──あとは自由。
ああ、そうか──いまさらながら、ようやく気づく。
あると錯覚していたものが、じつはなかったというだけで、そもそもおれは、なにも失っていない。
ここまでやってきた『おれ』は、そもそもなにも失われていない──


(中略)


ドライブシートから飛び出した先がここだった。
これが本当のおれだった。
ああ、そうか──いまさらながら、思う。
本能なんて幻想だというのなら、おれはほんとに、自由なんだ。
生きてもいい。死んでもいい。生まれてくるのに理由はない。生きていくのに価値などいらない。生物は義務などなにも背負っておらず、なにを背負うのも自分の自由──そんなの責任を負わなくていい子供の価値観かもしれない?──でもそれのなにが悪い?おれは子供なんだから。
だったらおれは、このまま行こう、せめて大人になるまで。
背負うものを探しながら、一個の生き物──『乗り物(ヴィークル)』として。
──熱い──

感情をサプリによって制御しているこの世界で、ヴィークル、「共感覚を多面的に利用して自分自身を完全にコントロールするためのもの」によって、羽鳥はチームを日本一にする、あるいはヴィークルを世間に認めさせるという世俗的な意味の目標を持ってはいるけれど、最後に来るのはあくまで自分自身です。過剰な意味なんてない、ありのまま。生まれたままの姿なんていうのも、一切を飾ることのないそのままという意味があります。
あるものにとっては喜劇、見方によってはほんとうにしょーもない、冗談にしか見えないような「意味のなさ」。そこにある種の限界まで行ってしまう奇跡がある訳で。傍から見たときのかっこ悪さと本人にとってのシリアスさというのもうえお久光の一つのモチーフだと思うのですが、この奇跡は一つの極みかと思います。


ということで、マジ傑作。熱すぎるぜということで超オススメです。ネタばらしまくった後に言うことじゃありませんが。
あと、個人的に引っかかってる所としては、「──そして彼女は、いまも元気に歌っている」です。ここまでを読んだときには、元気にという意味を感情を失っていないのかと思ったけれど、「ロックンロール!」まで読むとそういうことではなさそうで。つまり、ミクニが歌によって感情を引き起こすことは出来なくなっていそうです。羽鳥の奇跡があくまで人間の限界を超えていないと語られるように、あくまでそうあるということは避けられない。その上でそれを肯定している。旧世代としては引っかかりを感じてしまいますが、やはりこれでいいのかなあと。そういう悩ましさも含めて、ありのままとして受け止めたいと思います。

*1:その人にとっての