リトルバスターズ!という束の間の休暇

then-dさんへの反論?なのですが、リトルバスターズ!って作品のミニゲームは基本的に馬鹿馬鹿しいことを全力でやるということを追及していると思うんですよね。沙耶シナリオのみではなく。バトルランキングとか、野球とか、とても楽しい。
そして、恭介とか謙吾にとっては、こういった遊びというのは、完全に虚構で、ほとんど非日常です。「日常を装った虚構世界」と言われている通り。そして、それを全力で楽しむということは、「ふたりが楽しければそれでいい」というものとほとんど同義だと思うのです。理樹と鈴を成長させるという本来の目的から考えると、完全な余剰ですし。
こういったミニゲームにおける楽しさというのは、この作品において、特に謙吾や沙耶、そして事故で死んでしまうはずの皆においては本来与えられなかったはずの「休暇」です。楽しければ楽しいほど、ある種の虚構であるということが意識されうる。


無印の方では結果的に皆が助かったため休暇という色合いは薄れ、沙耶シナリオにおいては沙耶が立ち去った後というのはどちらかというと死亡説寄りなため、こちらの方が休暇という色彩が強いのですが、少なくともラスト直前まではどちらも同じです。謙吾がもっと遊んでいたかったけれど、後悔はないとして立ち去ったシーンと、沙耶があの世界から抜けだすシーンはかなり重なるように思います。


そして、僕はリトルバスターズ!は、やがて来る過酷を乗り越えることを信じさせてくれるという作品だと思っています。虚構世界で恭介の意志にかなりの程度支配された過酷を乗り越えたというだけではなく、いずれ来る輝かしいリトルバスターズ、学生時代の終わりとその後の彼らを信じさせてくれるのではないかと。
理樹、鈴だけでなく、リトルバスターズ全員*1にとっての、「やがて来る過酷」への休暇というのが、この作品だと捉えてもいいのではないか、と思っています。

*1:鈴以外のヒロインは外に出た時に主人公と付き合い続けるという形にはならないため、個々人で各々の問題に対峙しなければならないということなど