メタフィクションとフロレアール

フロレアールの構造とかについては昨日書いた ので、メタフィクションという視点から見てみます。たわごとなので、アホな子だな、こいつ、位で読んでもらえれば十分です。


メタフィクションについて、個人的かつ一つの見方としていえば、自覚のないまま支配されていることについて自覚し、その支配しているものまで次元や視点を上げることによって、それから逃れようとすることっていうことがあるんじゃないかとか思っています。
物語の中に描かれるキャラクターが作者を意識するとか、自分の世界にまた上位の世界があるとか、探偵が謎を解くということを前提として構築するとか。


これらにおいては、大体「支配されること=悪=そこから逃れなければならない」という価値観が成り立っています。支配が気にならないならほっとけばいいわけですけど、そうはせずに自分も上に上がろうとする、あるいはその支配から逃れようとしていますから。
それに対して、フロレアールの場合は実際に支配されているにもかかわらず*1、外の世界はフィクションに過ぎない、そして一つ一つフィクションを検討していくことが大事だと言っていて、支配されていることは検討されるものの一つに過ぎないわけです。

最後は「メタなんかどうでもいい」ということになり,「きみとぼくのセカイ」に《らぶらぶ》の引力で回収されてしまっている。          (博物士 [Game] フロレアール )

ということに対して質問するのならば、どうしてそれでいけないのか?となります。フロレアールではメタはあくまで検討されるものの一つに過ぎず、「どうでもいい」でも良いのですから。
こう読むと、フィクションの否定という意味でのメタフィクション(支配されていることから逃れること)に対する異議申し立てという意味でも、フィクションの全肯定と言えるんじゃないでしょうかとか思ったりしました。

*1:強制的にハッピーエンドにされること