涼宮ハルヒの憂鬱 14話 人称と表情

この最終回ではキョンくんの言うことはほぼそのまま採用されていたのですが、原作が一人称であり、アニメがそれをあまり徹底しないことにより、視線や表情が結構違います。


一人称というのは、そのとき「俺」が見ていなかったものは、伝聞か回想としてしか登場できないため、誰かの表情の変化を描く際には、語り手がその人の表情を見ていなければなりません。これは一見制約に見えるかもしれませんが、そうではなくて、語り手は単なる中立な視点ではなく、あくまで意思を持った存在であるため、表情の変化を逐一述べられる時には、彼が彼女の表情が気になって仕方がないからということに他なりません。


原作では、キョンくんが「元の世界に戻りたいと思わないか?」という前には既に立ち止まってハルヒの隣に立っているのですが、アニメではハルヒの顔を見ずに前だけを見て走り続けて、「元の世界のあいつらに会いたいんだよ」と言い、ハルヒに手を離されるまで彼女の顔を見ようとはしません。
これだとどうもハルヒに優しくないと思います。ハルヒには理解できない、しかも彼女のしたいことを否定することを、自分だけ満足し、一方的に語るキョンくんは。
誰かに、その人とは違う自分の思いを伝えようとする際には、その人と「向き合う」必要があると思うわけです。でも、アニメではただ前を向いて走り続けて一方的に語るのみであって、ハルヒの反応をちゃんと確かめすらしません。原作だと「ハルヒの目が曇ったように見えた」とか、「ハルヒは少しうつむき加減に」とか、「ハルヒは口を尖らせて」とか、ハルヒハルヒといちいち見ていて、わざわざそれを語っているのに対して。
こんなキョンくんじゃハルヒが手を離したくなるのも分かると言いたくなるくらいです。


特にこの辺りのシーンは、その後の世界はお前の思う方向に進んでいたんだよというキョンくんのセリフの後に、ハルヒがついと視線をそらして巨人の方を見たとか、目線の動きや動作などで各人の心理を表すシーンがいろいろあるわけです(アニメでは音がしたから見ていることになっています)。それなのに、小説のようにいちいち断らなくても*1そういった動作を自然に見せられることができるはずのアニメで、そういった表現をしないというのは釈然としないものを感じます。
映像での魅力って技術とかより、むしろこういうものではないか、と思っているので。

*1:小説では最初に述べたような利点があります