さくらむすび

子供と大人の違いってなんでしょうか?
いろいろあるとは思うんですが、その一つには関係性の広さがあると思います
例えば、小学校に入る前だと家族というものは非常に大きな存在であり,その子にとっての世界というと家族が中心ですよね
学校に入ると、学校と家やその他もろもろがその人にとっての世界となり、年を経るにつれどんどん大きくなっていきます


そのように関係性は、成長するにつれ、不可逆的に、広まる方へと進んでいきます
ですが、それに逆らい、幼い頃の小さな関係性のままでいることは可能なことなのでしょうか?
あるいは、関係性が広がっていってしまうこと、戻すことはできないことは不幸なことなのでしょうか?


成長しないでいるうちは良かった、ただ桜を守ってあげたいという主人公の気持ちや、お兄ちゃんが好きだという桜の気持ちは、成長するにつれ社会の影響を受け、その意味合いを変えていきます
二人だけでいた小さなころとは違い、守ってあげたいは実際に働いて桜を養うということに変わっていき、お兄ちゃんが好きは妹としてのものではなく、女性としてのものでありたいというものへと変化していきます
そういった変化を経て、幼いままであるということがどういうことか?ということを突きつけられます


誰かを養うということは、社会と関わらずにはいられません
そして小さいころは許されたお兄ちゃんが好きという気持ちをそのまま成長させた、女性としての好きであってほしいと願うことは、その社会に対し対立します


そんな状況の中、幼いままの関係性でいようとすることは、時計の針を戻そうとすることであり、大人になること、成長することを拒絶する行為でもあります
そして成長を拒絶することは、ネバーランドのピーターパンのように、周りの皆から置いていかれ孤独になることを意味します
桜バッドでは、社会的には兄妹の恋愛は認められるものではないということを理解することを拒絶し、成長しないまま、桜の丘で二人だけでの幸せを作ります
でも、そこには彼らを祝福してくれる人は誰もいません
そこにあるのは、幼い頃の小さな関係性だけです

ここにはもう誰もいない。君を嫌ってくれる人も愛してくれる人も、みんなもう出て行ってしまった。ずっとずっと昔に


それに対し、成長して関係性が広がることによって周りから祝福され、桜も主人公と紅葉の関係を祝福してあげることができた紅葉エンドを見たときに、紅葉エンドの方が幸せじゃないかと思うわけです


紅葉エンドでは、桜の、主人公との恋愛はかなうことはありませんでしたが、兄妹という形はこれからもずっと続いていきます

だからね、桜。
これからもおまえと僕とは、この世界にただ二人きりの兄妹なんだよ


そして、桜は学園から卒業する主人公のために、さくらむすびを胸に付けてあげます
劇で、世津子のために、桜結びを渡そうとした楓のように
主人公と楓、二人のことを祝福して

僕は今、ここにいるだろう。
大好きな妹と、家族と、愛する人と共に。
何が、誰が、不幸なものか。

それは、二人だけの寂しい桜バッドよりも、ずっといいんじゃないかと僕は思います