CLANNADと物語


少女革命ウテナフリクリ等の脚本の榎戸さんが言っていたことですが、物語っていうのは子供が大人になるためのものだということがあると思います
ウテナで表現されているものとしては、

おもちゃと同じだよね。”やがていらなくなるために”それは必要なんだ

という言葉です


これって弱いってことも当てはまると思います
この前感想を書いた美凪シナリオなんかでもそうですが、あのシナリオでは夢そのものは否定されていません
でも、今までは必要だったけれど、いつか醒めなくてはならない


key作品で描かれているものって、結構シビアな感覚だと思うんですよね
AIRでは、千年かかってできたことが、呪いを断ち切るための手伝いだけであり、観鈴を救うことはできず自分も烏になってしまった
CLANNADでは、渚は汐を生むことにより命を失ってしまった
そしてそれ渚の死は、“朋也にとっては”特別なものなんかじゃなくて、ずっと受け入れることができない、ただひたすら悲しく辛いものだった


よく言われているようなご都合主義というのも、この辺りのシビアな感覚を物語として描くためのもので、弱い人のための物語だからこそ、CLANNADでは長い長い、坂道を登ってきた一番最後に、渚が助かると言うある意味では甘いこと、それを望んでしまうような弱さを受け入れるような余地を残しておくのだと思います
だから、渚が助かるのがおかしいとか都合主義だといって、否定してしまえる人には、この物語は必要ないんじゃないかなと思うのです
極論を言えば、最初から最後まで全く救いがない物語に対して、それでも先に進めと言える人は物語なんて要らないと思います
美凪シナリオだって、夢を見ることが悪いことだと断言できる人には、あの物語は要らないでしょう

CLANNADは特に全年齢ということもあり、そこに介在する甘さが多少増えることは仕方がないということもあるので


だからそういった弱さがあることによって、CLANNADと言う物語そのものを否定しないで欲しいというのが、僕の思っていることなのですが