ましろ色シンフォニー感想(主に愛理とアンジェ)

月刊ERO-GAMERSでこの作品についてはもうちょっと考える予定なので*1、現段階での考えを書いときます。
やっぱりネタバレ。


特に愛理とアンジェシナリオの話なんですが、ましろ色シンフォニーという作品は、空気の読める主人公を描くにあたり、顔の描かれない一般生徒というのが通常のエロゲーより比重として高いのかなと思います。


愛理とアンジェは最終的に「皆」の働きが重視されています。
愛理は「うっぜぇぇ〜〜〜〜〜っ!!」と苦笑しながら祝福されるように、アンジェは野良メイドから旦那様のメイドを経て、旦那様のメイドでありながらも皆から憧れのメイドとして再承認を受けるように。


「空気の読める主人公」というのは、文字通り目に見えるものだけでなく、目に見えないものを射程に入れている。エロゲーで目に見えないもの、ということで一般生徒です。
愛理とアンジェルートにおいては、シナリオ前半は愛理との確執などもあり一般生徒がよく見えているのですが、個別シナリオとしての色彩を強めてくると段々ヒロインとその周辺のみしか見えなくなってきて、最後にまた一般生徒が視界に入ってきます。
愛理ルートなんかで主人公が「空気が読めなくなる」という描写がありましたが、そこら辺うまいなーと思っていて。それだけのめり込んで、「他が見えなくなっている」訳ですよね。物語って、語り手にとって重要なことが視界に入るのであって。


そういったある種の閉じこもった狭い関係から、もっと広い視野に広げたところで物語が終わります。例えば、愛理ルートの署名運動や、アンジェルートでのケーキの共同作成など。
「空気の読める主人公」がそれを見失うくらいヒロインに惹かれて、その上でその本義を取り戻すことによって新しい形を作り出す。破壊と再生みたいな話ですけれど。
物語というものがエンディング後も続いていくことを考えれば、この形はやっぱり好きで。閉じていくのではなく、広げていく。
例えば、装甲悪鬼村正が閉じていくエンドで、真剣で私に恋しなさいは広げていくエンドです。
村正の武帝というのは救われようのない圧倒的な行き止まりです。武帝という概念は誰も幸せにならない形である。
それに対して、まじこいの旅立ちというのは、物語が終わっての、「これから」を描いています。
村正という作品においてはあのエンドはありなんですが*2、個人的な好みから言えばやはり後者の方が好きで。
ましろ色シンフォニーという作品の圧倒的なまっとうさから考えても、ヒロインと二人だけで終わるのではなく、周りに受け入れられるというところまで持って行くということをやって、初めて物語を終えることが出来るという気もしますし。



気づかいによって自分より他人を優先してしまう、新吾という人はそれによって自分にかなり負荷をかけてしまっていた人でした。そんな人がパートナーを見つけて一つになることにより、世界、周りにいる皆ともっと上手く付き合っていく、そんな”これから”、キャンバスのようなまっしろに描かれるシンフォニーっていうのは、やっぱりきれいだなと思うわけです。

*1:30日にラジオ予定

*2:http://www.ero-gamers.com/にエンドの解釈書いたんで良ければ。三十日くらいに公開される予定。宣伝