ゼロ年代のそうぞうりょく*1

AIRについて二つ。この作品に関してあまり雑な話はしたくないのですが。


一つ目。とりあえずどうかと思うのは「世界には他にいくらでも自己実現の回路は存在するからだ」のくだりです。
AIRって、「ぎりぎりのバトンパス」、個人としての枠の中で、その人としてのぎりぎりの最善を尽くすという話ですよね。これは別に往人だけの話ではなくて、神奈・柳也・裏葉・観鈴など、皆に当てはまる話です。例えば、観鈴は夢のことを他人に言ってはならないなど、自分で設定したゴールを達成することに文字通り必死でした。傍から見て滑稽であったりずれていたりしたとしても、自分が抱いたものに対する切実な意識を持ってそれを成しています。そうした人に対し、世界には自己実現の回路はいくらでもあるということを言っているわけですよね、この人は。


往人だけの話ではない*1父になれない=即絶望なんて図式をAIRに当てはめること自体成り立たないですし、自己実現の回路はいくらでもあると言い切ってしまうことは、端的に本人にとってどうしようもなく切実な悩みがあるということを解さないというだけです。
AIR的感性に従って言うなら、こういった誰かの価値観に対するあまりに安易な介入はどうなのか、と言いたくなるくらいで。



二つ目。この作品に所有というものを無理にでも読み込むのはすごいなあ……としか。
まちばりあかね☆さんのゲームインプレッション(ttp://pasteltown.sakura.ne.jp/akane/games/impression/air/air_review.htm)
の解釈に従えば、この作品の最後はこの作品自身で描かれた悲劇がなくなった後に過酷な日々を送っていくというものであるので、どうやって悲劇を永遠のものとして所有すんの?という感じです。ここまで読みこまなくとも、プレイヤーに向けて「さようなら」と告げるこの作品に向けて所有か…とか思うわけです。あの世界ではその後も歩みが続いていくはずで、そしてそれはゲームをしている「僕ら」には見ることができないわけですよね。所有することが出来ない、決して自分たちのものにならない物語があることを示して終わる作品に対して、そういうこと言うのかとも思うし。


ていうか、そもそも読む気*2がほぼない作品に対する言及に対し、真面目に書くのが間違ってるんじゃないかとか、そんなことまで思えてきましたけど。

*1:プレイヤーの分身である主人公(この言い方も嫌なんですが)

*2:読んだかもしれないですけど、アンチ東のために読んでないですか?これ