ひぐらしのなく頃に 祭囃し編

完全ネタバレで。終わってない人は読まないでください。


面白かったです。終わった後のスタッフルームでは、僕が思ったのとほとんど同様のことが語られていて、結構共感してました。



皆殺し編をやって思ったことなんですけど、ひぐらしって「悲劇」というのにはどうかなって印象があったんですよね。北条鉄平のようなキャラを出して最終的な責任を帰結させてしまうというのは、ただ然るべきところにその報いが来たということなので、それを誰にも回す事ができない、誰も倫理的、思考的な欠如がなくても悪くないという場合には対応できないということです。それこそ、この作品でよく言うような「難易度」において劣ります。



始まる前からそういう印象を持ってて、三四さんを利用しようとした人が出てきた時点で、この印象は多分覆せないんだろうなと思ったんですが、インタビューまで見て、印象が変わりました。

ひぐらしは誰かを信じ、話し、協力することによって決して起こりそうもなかった奇跡を起こすことができるということを、極度に疑いやすくなるけれど、本当に心から信じることができればその影響を受けないという雛見沢症候群や、繰り返し起こる「悲劇」*1による起こした奇跡の価値を描くことなどによって、皆殺し編までではっきりと描かれているので、「誰かを信じることの大切さ」くらいにまで一般化してしまえば祭囃し編までに一貫して書かれており、言ってしまえば既に分かっていたこととも言えます。もちろんその状況や難易度によって描かれるものは異なるため、ひぐらしで描かれたものはそれだけでも十分優れた作品であると言えるのですが。


でも鉄平について書いたとおり、それが敵を作ることによって成り立つのなら、結局はババを回しているに過ぎません。今回三四を利用しようとした人についても同様のことを思っていたのですが、スタッフルームでその「敵を作ることによっての団結」についてはっきり述べられているのを見て自覚的であることが分かり、考え直すことによって印象が変わりました。


作中、

 沼の畔には、人心の乱れを嘲笑う鬼神の姿があり、若者たちは勇敢に戦いを挑み、傷つきながらもこれを打ち据え、召し捕らえて古手神社に引き立てた。
 神主は、鬼神を祓い、その腹を割いて腸を引き出し、千切って沢に流し、遺骸は沼に沈めて葬ったという。
 するとたちどころに人心の乱れは収まり、互いに疑いあい蔑みあっていた人々は互いに手を取り合って、訪れた平和を喜び合ったという。

という話があります。このエピソードについては、誰かにババを押し付けようとすること*2という側面について語られるのですが、この事例に対し、なぜ人心の乱れが納まったのか?ということをスタッフルームを基に考えると別の側面が見えてきます。鬼が殺されたから人心の乱れが納まり、人々が互いに手を取り合うことができたのではなく、鬼と言う敵がいたから、それを敵にするもの同士で団結することができた、すなわち、鬼を倒すということではなく、鬼と言う敵の存在によって解決したと言うことです。つまり、この解決法は敵を作ることによる解決、皆殺し編と同じ回答ということです。


それに対して、祭囃し編で最後にどうなったかというと、三四を利用しようとした人物についてはほとんど視点が当たりません。それはつまりババを回さない、敵を作って解決するのではないということです。回すべき理由があれば容赦なくそれを回す、つまりその人を責める権利があれば必ず責めるという思想は、結果的にババ抜きの思想を助長することとなります。そうではなくて、ジジ抜きは、それを自分の利益のために相手を利用することや、自分達のために不利益、ババを回すという行為でない、つまり回すのはババではないのです。手札がそれぞれの人の手から回るということは、嫌なものが自分のところに来ないようにする押し付け合いが自己目的化した世界ではなく、交易が目的なんですよね。


少し独自の解釈かなというきはするのですが、そう考えると、あのエンドがすっと落ちてきた気がします。



最後に、非常に優れたエンターテイメントだったと思います。今回の祭囃し編でも、うははwww、バカすぎwwwwwという感じで思い切り声をあげて笑っった箇所が結構ありましたし、構造やトリックなんかについても作り方に感心させられ、今回あげたようなことについても考えることができました。竜騎士07さんの今後に期待しつつ。

*1:一般的な用法で(悲惨な出来事くらいで)

*2:先に人心の乱れがあると作中で指摘されているように、鬼が人柱として利用されること