麻枝作品の孤独とか母性とか

麻枝さんの作品では、皆それぞれ別の方向へ向かうため、一人、そうでなければ二人というのが最大人数であり、孤独というものが当たり前のものとして認識されているように思います。
AIRでは、ラストの晴子さんやそら、柳也と裏葉、空にいる神無やずっと一人でいた観鈴ちん、さようならと告げ海岸線を歩いていく少年と少女など。
Kanonでは、舞は佐祐理さんと会うまで一人ですし、智代アフターでもアフター編になれば、鷹文や河南子、ともとは一緒にいることはなく、それぞれ別の道を進むことになります。
CLANNADのショートストーリー集なんかでも、汐は一人で世界一周すると言います。


key作品には父性が欠如しているなんて話を結構読んだ気がしますけど、それが感じられないのは、こういった人間関係が当たり前のものとして描かれるので、そもそもそんな近い対人関係を維持できないからじゃないかということも思います。一応父性についてwikipediaのをリンクしときますけど(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E6%80%A7)「子供に欲求を断念させ、規範を教え、責任主体とし、理想を示すものである」なんてことができるほど人の距離が近くないです。小さな子どもであっても、「小さな手でもいつの日か僕ら追い越して行」ってしまうくらいですから。予め別れる事が前提とされていると言えそうなくらいで。
他の人と同じ道を歩くことができないという認識により、他人との関わり方としては、見守るという距離のあるものになります。それ以上関わることが不可能で、その唯一できることである見守るという行為が母性的なイメージがあるため、key作品では父性的でなくて母性的であると感じられるのではないかなと。



というかそもそも、欲求を断念させるとか、教えるとか、考え方を変えさせるということが可能だと、麻枝さんの描くキャラに対しては全く思えないんですが。
どの子も頑固で人の話なんか聞かないというのに。