ひぐらしのなく頃に 祭囃し編 ひぐらしにおける奇跡

ひぐらしにおける「奇跡」という言葉の使い方は主に二種類あります。
一つ目は 「システム化された奇跡」です。

…………僕はもう、傷つくことを恐れて舞台に上がらないなんて嫌なのです。それを恐れずに、みんなと信じる。だから、奇跡が起こせる…!

 ひとりでは奇跡でも起きなかったら絶対成しえないことでも、…みんなでならあっさりできる。
 ……つまり、それは奇跡ってことだ。


この「奇跡」は、条件を満たすことによって必ず起こるため、「舞台に上がることを恐れず、皆を信じること」という条件に従属するものです。 ご都合主義と呼ぶことが可能なように、「必ず」「奇跡」が起こる世界ですから。
そのため、この「奇跡」を描くということは、「舞台に上がることを恐れず、皆を信じること」の大切さ、重要さを描いているということです。


それに対し、二つ目の奇跡は、 問題となった一発の弾丸のシーンで描かれるものです。こちらは、「舞台に上がることを恐れず、皆を信じること」という条件は満たされていません。
そして、作中梨花

「それを驚くのはおかしいわ。……あんたと学んできたんじゃない。奇跡の起こし方。……今日、何度もすごいことが起こったけれど、…本当の奇跡なんて何一つ起こしちゃいないわ。
……全て、信じあえば起こって当然のことだった。……だから、……この最後の瞬間に、本当の奇跡を使うわ。……私、オヤシロさまの生まれ変わりだしね、最後にこの程度の奇跡は使わせて。」

と言われている通り、一つ目の「奇跡」とは根本的に性質が違います。
この「奇跡」について、一つ目の「奇跡」にとって重要であるどうして起こったか?という条件について考えるなら、オヤシロ様の生まれ変わりであるという設定が使われたくらいかもしれません。でも、この「奇跡」に大切なのは条件ではなく、「奇跡」によって何をなすか?だと思うんですよね。
一つ目の「奇跡」は条件が大切であったので、「奇跡」そのものは問題が解決するとか、上手くいくこと以上には描かれていませんでした。二つ目の「奇跡」はそれとは逆で、条件についてはほとんどありませんが、その「奇跡」は梨花の答え

 敗者の出ない、……完成された世界。
 仲間外れが出ない、完成された世界。
 誰一人、輪の外で指をくわえてなくていい。
 誰一人、罪を背負い込んで泣かなくていい。
 全員が手を取り合い、罪を赦せる世界。
 人が生きる以上、垢が沸くように罪も湧く。
 大切なのは罪を沸かせないことじゃない。罪を赦すことなのだ。
 罪に対して潔癖であろうとするから、より世界は醜く歪むのだ。

 罪を、受け入れよう。
 そして、みんなで赦そう。
 それが、古手梨花が見つけて至った、完成された世界…。

 それは、……1人を敗者にしなくてはならない、人の世の罪からの解放。

を示しています。これはスタッフルームで言われたような敵を作ることによる解決、ひいては、誰かに背負わせることをしないということです。
仮にここで一つ目の「奇跡」を起こすとするなら、鷹野は信じることのできる仲間ではないので、敵になるしかないと思います。それは、敵を作ることによる解決でしかありません。
それに対し、梨花の答えは、信じることのできる仲間を信じるというだけでなく、敵である鷹野にまで適応されることものです。
そのため、この奇跡は、一つ目の奇跡「信じることの大切さ」を踏まえたうえでもっと大きな物を描いているので、ひぐらしのなく頃にという作品の最後に持ってこられるものとして相応しいものであるのではないかと思いました。