SOUL CATCHER(S) op.11

神峰翔太
君は一体
何を
見ていた?

刻阪くんのスタンドはやっぱ手を出すことなんだろうかとか、音羽先輩ほかの学校の人といても食ってくんやねーという。


やっぱ神海先生のビジョンは最高ですね。あの人にはいったい何が見えているんだ!という感じ。先週刻阪くんが天籟の音に取り込まれたときに服装まで変わってましたけど、そこから異なった音を出そうとする表現としてその服を破るって絵は常人には出せないよなと思うんですよね。これバトル漫画でも異能漫画でもなくて、吹奏楽漫画だよ?という*1


あとは神峰くんの成長話としてみると、彼の見たものを刻阪くん以外に話したってのも良いです。刻阪くんが「混乱してるのか?」って何気に酷いことを言っているのですが、もともとこの物語は神峰くんが心の状態が見えるということだけで完結してしまうということが問題として立てられています。つまり、見えるだけで何の役にも立たない。むしろそのことを話すと却って悪影響を及ぼすという。今回は悔しさからであったとしても、他人に見えたものを伝える、伝えようとするという行為は変化であると思うのです。今週ラストで彼の音楽知識向上が挙げられていましたが、彼の見たものを伝えるというラインを進めていってほしいなと思います。


パートリーダー御器谷さん?のキャラも面白そうなので、来週以降も楽しみですねえ。基本刻阪くんとの二人ペア対パートリーダーという感じで進めていく雰囲気ですが、音羽先輩の時の打桶先輩のように、うまいこと攻略済みのキャラも絡めてやっていってくれることにも期待してます*2

*1:学園異能漫画ではあるかもしれない

*2:音羽先輩との距離感もいい感じだし

ビジョナリーとしてのSOUL CATCHER(S)

人に書いてねって言って自分が書かないのもあれなのでちょっと振り返り。
*1


心と音が見えるという神峰くんの能力ですが、一話を見返しているともう少し広義っぽいです。つまり、曲の構成、ビジョンまで見えている。

演奏者のメンタルから曲の構成まで的確に見抜く!!

曲を一つの映像作品として捉えなおしているという能力に見えるのです。暴君編の音羽先輩は先頭、奏馬先輩は胴体〜と言っている辺りもそうですけど。
最新話の虹を出してくれってのもそうで。
つまり彼の役割は心や音が見えるという現在および過去形よりも、彼のビジョン、あるべき姿を実現させるための能力というか。
彼自身の吹奏楽部での役割という所まで拡張すると、彼のビジョンを元に、彼が「演奏者をまとめて導く吹奏楽部の指揮者」となるという作品なんですよね。*2


もちろんSOUL CATCHER(S)なので、心を掴む演奏というのが第一義だとは思うのですが、「一つの完成した音楽を集団で作り込んでいく」というものを描くことは可能ではないかと思います。
と言いつつイヴァン雷帝も即興で作り上げるだったので、神峰くんが注文の多い料理店になるかっていうと微妙なので、その辺は彼の音楽知識向上とかも含め今後かなあという気もしますが。今のところ適切な言葉を持たないので、刻坂くんが翻訳してくれないとそのビジョンを上手く伝えられてなかったりしますが、その辺を埋められるように向上するという所も見てみたかったりします。


一話公開中*3で雰囲気が分かるので、皆見てね!というところで〆。

*1:http://d.hatena.ne.jp/katuyama-peke/20130715#p1

*2:僕には見えているとか言い出すとスタドラですね。暴君編で打桶先輩に神峰にゃ何が見えてんだ!!と言われてるのとかまさにそれ

*3:http://www.shonenjump.com/j/rensai/soul/

大図書館の羊飼い

大図書館の羊飼い 初回限定スタンダードパック

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コンプしたのでざくっとネタバレ感想。
・舞台
この学園が単位性で、大学に近い*1ので孤立しやすく、主人公である筧君が少なくとも初期においては積極的に他人にアプローチする人ではないという背景の上で白崎率いる皆がもっと楽しめる学園生活を送るための図書部というのは上手くはまってたかなと思います。


・羊飼い
ちょっと気になってたことは「羊飼い」ですか。タイトルに冠されている割には割と否定目に扱われています。主人公である筧くんは高確率で良い羊飼いになると言われていて、この作品ではむしろその羊飼いに「ならないこと」を描いています。誰かを特別にしない、ならない羊飼いにはならず、誰かを選ぶ筧君をこそ描いている。
作品で言われているように、世界設定としての羊飼いではなく、導き手を自分にとっての羊飼いだと捉えるのが読みとしては正しいとも思うんですけどね。


・登場人物
とても楽しかったです。登場人物達のコミュニケーション能力*2が非常に高く、皆いいやつらなので、会話を見ているだけでも楽しいです。
ただこういう人たちであるということのもう一側面として、色々なことが気になってしまう、見えてしまう、考えてしまうというのはありました。他の人から見ると大したことでないと思えることだったとしても、真面目に抱え込んで考えてしまう。自分のために他人に不自由をかけていると負い目を持って、不誠実だと考えてしまったり、自分の価値を認められなかったり。
自らの人生の難易度を自分で上げているような自縄自縛感があるんですが、そういう人たちがいられる場所としての図書部というのは良かったですね。
いい人たちであるからこそ難儀な彼らが幸せになれるというのは見ていて良いものでした。

*1:の割に生徒会が異常に強いのはおいといて

*2:この言葉どうなのと思わなくもないですが

月に寄りそう乙女の作法

月に寄りそう乙女の作法 -Standard Edition-

月に寄りそう乙女の作法 -Standard Edition-

「君がいないと私は駄目なんだ、全てにおいてそうだ」
「その代わり、君が支えてくれるなら強く大きく輝いてやる。この業界で私という光が大きくなれば、いずれ君も大きく輝くだろう」
「私ばかりが太陽として表に出てしまうが、今こうして見ていても、月は十分に美しい。太陽と月のような関係でいてほしい」

2012年にやったゲームの中で好みな作品というとこれかなということで、タイトルについて少々。
まともな感想はこの人*1とこの人*2参照。


どこかのシナリオでルナ様が朝日に、「君が関わらなければ大化けすることはないだろう」という趣旨のことを言うのですが、作品をよく表しているなと思っていて。
朝日はそもそもデザインの道を志していたけれど挫折してしまって、ルナに仕える内にパタンナーとして新たな道を見出します。デザイナーという光を支える乙女として。自ら輝くというよりは、誰かを輝かせる触媒のような役割として、現実からかけ離れたデザインを作るデザイナーを輝かせるために、現実的に形にするパタンナーとして朝日はルナを輝かせます。
相手に合わせて自らを変える、変わっていく。

きっとまた僕の世界は変わる。だけど愛しいひとだけは変わらない。
新しい自分になって彼女に寄りそおう。


でもそれは、変わるのは朝日だけではなくて、朝日が仕える月も変わっていく。なんて言ったって、「朝日」と「ルナ」なのですから。冒頭引用したように、「朝日」がなければ「月」は輝けず、その輝きがあるからそれに仕える朝日が輝く。役割が入れ替わりつつ、それぞれ変わって輝いていく。ルナシナリオで、大蔵遊星として恋人関係として上に立つこともあれば、小倉朝日として仕えることもあるように。「光と影が、幸と不幸が、太陽と月がさかさまになる興奮」というのが、この作品の良さではないかと思いますよ。
ルナに人に影響を与えて、感化させるところがあると朝日は言われます。意味を確認したところ、感化という言葉は影響を与えて、自然にそれを変えさせることだそうで。自然にというところが良くて。つまるところそれは、誰かを変えようとして変えるのではなく、自分が寄りそう相手が好きで仕方がないと伝わるくらいの彼あるいは彼女の作法を見る内に、自然とそうなっていくのではないかと。


この辺りの描き方が「大変に気分がいい」と思わせてくれる作品だったと思います。

スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園

前作面白かったので*1続編も買ってやったのですが良かったです。旧作プレイ推奨というか、十全に楽しむために必須という感じでしたが。
以下ネタバレとか交えつつ。

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Angel Beats!論 「My Song」

「人間というものはね、たったの十分だって、我慢してくれないものなのよ!」とゆりは言うけれど、締め切りも待ってくれないのでした*1
こういうのは自分の言葉で書くことが重要かと思うので、Angel Beats!について気になった価値観辺りからざくっと書いていきたいと思います。


1.飛躍

主体と他者が本質的な意味で「出会う」ためには、主体概念そのものを書き換えなければならない。「他者」というものは定義上「私」の理解も共感も絶したいかなる度量衡も共有しないものです。それをどう歓待するか、どうやってそのメッセージを聴き取るか、どうやって支援し救済するか……そういう主体の側の能力や努力に焦点化して「他者問題」を考えている限り、永遠に他者との「出会い」は生成しません。
(中略)
他者と出会うためには、「私」という概念そのものを書き換えなければならない。「日本辺境論」 内田樹

そうではなくて、呼びかけの入力があったまさにその瞬間に生成したものとして主体を定義しなおす。あたかも「右衛門」という呼びかけが最後のピースであり、それが「かちり」と嵌った瞬間に、それまで存在しなかった新たな生命体がそこに生気を吹き込まれて出現したかのように。「日本辺境論」 内田樹

ここでは「他者」という言葉が使われていますが、Angel Beats!における神あるいは人生という概念も似たものです。私たちからするとどうしてそうなるか分からず、意思と関係なくあるもの。「あたしたちのかつて生きていた世界では、人の死は無差別に、無作為に訪れるものだった」とゆりは語ります。
そういうものを目の前にしたときどうするか。12話のゆりが、まさにそれではないかと思うんですよね。直前に残酷で無比な、たった一度の人生を「そんな人生、一生受け入れられないから!」と言った彼女が、永遠の楽園の神となりうる機会を手にしながらも、「たったの十分だって我慢してくれないものなのよ」と言ってそれを破壊する。永遠の時間の時間がある「にもかかわらず」、迷わずに即決する。それを何故かと考えてみるに。
いくらでも悩める場でいくらでも悩んでしまうとそこに切迫感はありません。言ってしまえば決断する理由がなくなる。今決めなくてもいつでも決められるのですから。決めないことを正当化できてしまう。
とはいえ、そうしてしまったときには、もう既に永遠に捕まってしまっていると言えます。永遠の時間の中で継時的な変化だけでは、辿り着けないこともある。Angel Playerの製作者は永遠の前に狂うしかなかった訳じゃないですか。
つまり、それと向き合うためには飛躍、冒頭で引用したようなその瞬間に生成したものとして自らを定義しなおすことが必要となります。ゆりが12話のラストで泣いたのは、新たに生まれたからだとも思えるんですよね。強くなんてない普通の女の子として。


2.転倒
飛躍というのは常識的に考えたら起こらないものだと思うのですが、Angel Beats!作中バンド GIRLS DEAD MONSTER、略してガルデモの歌詞の特徴、価値観の転倒もそうだと思います。「Crow Song」の「こんな暗闇の中からの希望照らす光の歌を」、「Alchemy」の「誰からも忘れられたようなくすんだ存在になってしまうよ」から「触れるものを輝かせてゆく」。そして「My Song」。「泣いてる君こそ孤独な君こそ正しいよ人間らしいよ」。ここにあるのは何かと言うと、今輝いていない、辛い、孤独な人間こそが、輝く、正しい、人間らしいのだというメッセージです。普通に考えれば正しい、輝いている人が、辛い、孤独であることはなさそうに思えます。何故こういった転倒をしているのか。
直井はこの世界に来た人は「皆一様に酷い人生だったろう」と言います。そして、実際に世界設定として、AB!の作品世界は青春を謳歌出来なかった人たちが、ありえなかった青春をただ一瞬だけ謳歌する場所であるようです。この作品世界観は今現在過酷である人へ向けたものと言えます。
過酷な人生は辛いもので、誰もそんな人生を積極的に背負いたいと普通は思いません。過酷を肯定する論理なんてないんですよね。でも、ここではそれを転倒させて、泣いている、孤独である、「だからこそ」正しい、人間らしいという転倒による肯定の言葉にしているんですよね。自身が過酷であるからこそ、過酷な人へ向けての語り、そういうものではないかと思います。


3.ひとり
「孤独」という言葉を「My Song」から引いてきましたが、それに類する言葉はAngel Beats!の曲では頻出します。執拗に繰り返される「ひとり」。
「Run with Wolves」「もうひとりで生きていくしかないと燃えゆく荒野を見つめ」、「Morning Dreamer」の「一人暮らしで誰と話してたんだろ」、「Rain Song」の「どうしてその君だけがいなくなっちゃうんだろ」、「一番の宝物」の「ひとりでもゆくよ 例え辛くても」、「Brave Song」の「いつかにひとは一人になって思い出の中に生きていくだけ」。アルバム「Keep The Beats!」の収録曲からですが、偶然とかでは到底考えられない頻度です。
アニメの描写を見ても、ひとりであるということが基調となっています。AB!で満足して成仏した人で、誰かと一緒に消えた人はほとんどいません*2。最終話にしたところで、必ず一人ずつ消えていく。そして、誰かが一緒に消えてくれるから消えることが出来ると言う描き方ではないんですよね。あれだけ音無を慕っていた直井でも音無と一緒だから消えるとは言いません。音無と出会ったことによって報われて、だからこそ迷わずにひとりで行く。
こういった描写の背景には、ひとりで行くということに対し、そういうものだ、もしくはそうあるべきだという積極的な意思があるのではないかとすら思えてきます。そして、ひとりになったときに持っていくのが「記憶」です。


4.記憶
Angel Beats!において記憶というモチーフが繰り返し出てきます。
二話「Guild」で「大切なのは場所や道具じゃない、記憶よ」というセリフがあります。この世界ではそれを構成する仕組みと作り出す方法さえ知っていれば、土くれから銃を作り出すことも可能です。これはかなり特長的な設定だと思います。
また、この世界に来る前の生前についても、記憶という形を取られることが多いです。最も象徴的なのはゆりの語りです。

ここから消えたら、やり直せますかね。こんな当たり前の幸せをあたしは、受け入れられますかね。
記憶も失って、性格も変わって。ならできますよね。でも、だったら生まれ変わるって何?それはもうあたしの人生じゃない。別の誰かの人生よ。人生はあたしにとってたった一度のもの。それはここに、たった一つしかない。これがあたしの人生。誰にも託せない。奪いもできない人生。押しつけることも、忘れることも、消すことも、踏みにじることも、美化することも、何も出来ない。ありのままの、残酷で、無比なたった一度の人生を受け入れるしかないんですよ。先生、分かりますか?だからあたしは戦うんです。戦い続けるんです。だって、そんな人生、一生受け入れられないから!Angel Beats! 12話 「Knockin' on heaven's door」

ここでは、人生には記憶と性格が不可欠であると語られています。つまり、記憶を失ったら自分の人生のかなりの部分が失われてしまうと言っているんですよね。記憶は絶対に欠くことができない。
こういった前提の上に、この世界から成仏し、別の世界へ行くこの作品世界観で次へと持っていける唯一のものが記憶です。ひとりで行くことしか出来ない。でも、記憶だけは持っていける。

もうなにがあったか思い出せないけど
目を閉じてみれば皆の笑い声 「一番の宝物」

それすら不確かかもしれないけれど、それがこの作品で描かれる「一番の宝物」である。


5.不確かさ
「一番の宝物」の歌詞によると、記憶はもう何があったか思い出すことが出来ないものだと言われます。思い返してみれば、AB!という作品は不確かさに満ちた作品でした。作品世界観の全容は一部明かされたのみであり、登場人物達の来世もフジツボかもしれないと語られたりしながらも、最終的に成仏した彼らがどうなったかということが明らかになっていません。あくまで主観で見たもののみが描かれています。
そして、作中重要なシーンであるゆりが妹、弟に許されるシーンや、ユイと日向の幸せな光景なども確定的な事実ではないんですよね。12話でゆりが妹、弟にもう苦しまなくていいんだと言われるシーンが描かれますが、あのシーンには世界設定的になんら根拠がありません。あの世界で死んだ人の魂に再開することが出来るとか、そういった描写は何もないです。つまり、あのシーンを一番素直に解釈すると、ゆりの見た夢だということになると思うのです。あのシーンは妹、弟たちの良き姉、それだけであろうとしたゆりが、そうではない彼女自身を許すことが出来た、そういうものではないかと思います。
10話「Goodbye Days」のユイと日向の幸せな来世の光景も、そのような不確かなものです。そもそもここは、ゆりのときのような事実である可能性すらありません(もちろん来世でそうなりうるという可能性が否定される訳ではないけれど、あの時点では)。ユイが言うように、来世で出逢える保証なんて何処にもない。でも、そういうことじゃないと思うんですよね。確かな事実は手に入らないかもしれない。それでも。
日向が語ったのは、ありうるかもしれない一つの未来です。彼がユイのために幸せな未来を語ってみせ、それをユイが受け取って、ユイと日向とユイの母親の、三人での幸せな風景を思い浮かべた。あのシーンはそういうものではないかと思うのです。「どんな不自由でも幸せは掴める だから」。不自由というのは、ユイのような体のことだけではなくて、自分が今いる場所とか、運命とか、そういった全ての意味でのことです。

私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に遅れているということです。「日本辺境論」 内田樹

ユイが作詞した「Thousand Enemies」で「行く手には 数えきれない 敵がいてあたしを待ってる 君にも待ってる」と歌われるように、人はどうしようもなく環境、そのゲームに左右されてしまいます。でも、そんな中でも先に進むことが出来る。

その時は溜まっていたその気持ちぜんぶ聞いてやる
あたしも持ってる 君にも聞かす たっぷり聞かす「Thousand Enemies

事実ではなく語りの記憶によって。音無のやったことって、皆の過去を聞いて、彼らと語って回ることじゃないですか。最終話、かなでを成仏させたのも彼の言葉である。どんな不確かであっても、言葉、あるいは歌だけは届きうると思うんですよね。


6.まとめ
最終話でかなでが「My Song」を歌う理由は、最後に取り残される音無が最も過酷で、だからこそ最も尊いのだということを表しているからだと思います。彼の過酷から次の人生への踏み出しまでについて、作品では描かれていません。彼は彼のやってきたことを最後までやりきったことによってひとりになってしまった。「あなたが信じてきたことを、あたしにも信じさせて」

ひとりになった彼がどうしたかが描かれていないので推測しか出来ないため、ANGEL PLAYERの製作者になって永遠の世界に耐えきれず自身をNPC化したという可能性からその後すぐに成仏したという可能性まで幅広く残されています。でも、あの世界から消えた様子(Angel Beats! 12話 EDテーマ「Brave Song」
)、再びかなでと現世で再開した(と思われる)描写(Angel Beats! 12話 Cパート
)があるため、おそらくは最後には成仏していけたと思います。
麻枝氏にとってはひとりというのは「そういうもの」であって、どうしようもないものではないんですよね。記憶があればそれでも生きていける。いみじくも音無自身が「魂に刻みあった絆は忘れません」と言ったように。泣いていた彼が、最も正しい彼だけが成仏できない、そんな理不尽はないと思うんですよね。
立ち直れないかもしれない傷を負った可能性もある音無が、それでも前を向いて歩いてゆけたはずと描写も無しに信じるのはやっぱり飛躍だと思うんですが、12話でゆりの言ったような意味で『Angel Beats!』という作品もまたたった一つしかない、どうしようもないもので、受け入れるということしか出来ないと思うのです。だからこそ、僕はこのある種の無根拠さを積極的に受け入れていきたいと思います。結弦の言葉を信じて消えていったかなでのように。

Angel Beats!についてはまだまだ読み切れておらず未消化な部分も多いのですが、だからと言って永遠の時間があれば良いかというとそうでもないと思うのです。暫定的ではありますが、この作品への「わたしの読み」を提示したところで成仏していこうと思います。素晴らしいこの作品をくれた製作者様、麻枝准氏に「ありがとう」。

*1:最終話九日後

*2:ガルデモの三人を除く。正直これは尺の都合かと。

ニコニコで一挙放送とかやってたみたいなので、前から掲載依頼のあった*1『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』のAB!論を公開します。
依頼きてからかなり経ってますけどね…。
雀孫論とか読みたい人がいれば言ってもらえると。